saqwertのブログ

気ままに生きています。

音楽の趣味

 音楽を知らない事に少しコンプレックスがあります。たくさん音楽には触れているつもりなのですが、人の名前を覚えるのが苦手で、アーティストの名前も覚えないので、話に入っていけません。音楽はそれを共有するのに言葉を介さないと言いますが、それは音楽をともに聴いているときのおはなしで、言葉で共有する場合は、共感できると音楽を聴いているかのような気にさせるのですが、曲名もアーティスト名も、ましてや専門用語なんかも覚えているはずないので、わかるけど言い表せない悔しい思いをします。

 覚えるのが苦手と言いますが、たんに覚えようとしないのです。だから、自分は専門性もない平凡な人間だとたまに思います。

 

 それはいいとして、僕は音楽の変遷に興味があります。幼いころから、どうして、数十年前と今とではヒットする曲の感じが全く違うのだろうと、不思議に思います。20年生きてくる中で、常に新しいものに触れていました。生きているペースで曲を捉えると、印象なんかは変わったように思ないのですが、10年前の曲を振り返ってみると古くささを覚えたりして驚きます。最近は古いものに興味があって70年代の音楽を聴きます。周りのおじさんたちは我々の世代だと、古いといわれて怒ります。僕も米津玄師を古いと言われて怒る日が来るのでしょうか。言うでしょうね。様々な国の曲も聞いてみたいです。映画から知れるのもいいです。いつか自分でも作ってみたいです。以上、僕の音楽のちょっと気になった話でした。(2023年12月3日)

脱皮のための風邪

 残暑にやられ、それから2か月なにかに心身を蝕まれ、いま、11月も下旬。ズタズタだった体がここ2週間で回復の兆しを見せました。こころは、相も変わらず沈んいると言おうと思いましたが、かつて書いた自分の言葉を見返すと、考え方がずいぶん変わって余裕すら感じられます。自分もすこしは変わったかと思います。

 

 そんなころ、ゆっくりと時が過ぎていくのに落ち着いて過ごしていると、麩を食べようと手を伸ばしました。手を伸ばしたあたりから、鳥の目になって僕はボクを見ていました。机の上に置かれた麩を見て、のこりの味噌汁に入れてやろうと思いました。いりことピーマン、油揚げのうまみが溶け出した味噌汁の残りの一口を車麩にくれてやろうと、どうしてそんなことを思ったのでしょう。思い立ってこんな文章を書いているころには、麩はすいきれなかった味噌汁に浸かって僕を見上げているのでしょう。冷えた味噌汁に車麩はぶくぶくになってろくに顔も上げられないので、下にたたずむ雲に身を沈めます。(2023年11月23日)

ありがとうの槍を刺す

 やらないといけないことがあるとします。そこにずっと計画してきた企画の本番が重なると緊張やストレスが最高到達点に近づき、関節に痛みを覚えたり、口内炎ができたりと、次第に体が応えてゆくのを感じます。その短期的なストレスは受験の長期的なストレスにも匹敵するほどです。

 

 そんな苦悩も解決まではいかなくとも、生きていきやすくなる行動をみつけました。いつもそうだとは限らないし、当然みんながそうだとも限らないが、その行為に自分でも驚くような態度をとったので記録に残しておきたいと思いました。

 

 ストレスにストレスが積み重なって、それ故の判断ミスや体調不良によってさらにストレスを感じ、僕はどう対処することも出来ず、ぐったりと落ち込んでいました。そんなとき初冬の寒さと冷たい風に耐えかねて、コンビニで黒豚まんを買いました。これがとてもおいしくて、残り少ない力を振り絞って無事家まで帰ることができました。それだけでなく、帰宅後疲れ果て死んだように寝るはずが、お風呂に湯を張り始めました。黒豚まんの威力かは知りませんが、湯を張るのは引っ越して2年のうち初めてのことでした。これもまたよかったです。さらに朝家を出るときに残したコーヒーで即席のコーヒー牛乳を作りました。それはそれはストレスにみちた生活に福音が届いたような気持でした。そして僕は無意識のうちに「ありがとう」と繰り返し繰り返しつぶやきました。ささやくような優しい言葉ではなく、僕の人生を、環境を小馬鹿にするような、どこか暴力的なつぶやきでした。(暴力的と言ってみたかった。)その発言には自分でも驚き、幸せな余韻がだんだんと消えてゆきストレスに埋まっていくまま、これを書くに至りました。。おわり。2023年10月31日

本に囲まれスマホを触る

 図書館の各階の本棚を見て回るのは楽しいです。読みたい本があるわけでもなく、ただ本を眺めて回るのは、本屋でよくやりますね。僕が住んでいる地域には本屋がないので、図書館をよく利用します。つい最近まで、所有欲がよく僕に本を買わせていましたが、新しい本だろうと古い本だろうと内容は変わらないのだから古本でいいやと考えが改まり、次第に物を所持することにストレスを感じ始めてからは、図書館で借りるようになりました。図書館のサービスのすごさをいまさら実感いました。どうせ家にあっても読み直さないし、すぐに忘れるのです。図書館で借りれば、その本と再会するのは、ほこりにまみれた部屋の片隅ではなく、気になるあの娘との楽しい会話の中かもしれませんし。一期一会です。別れは惜しまない。

 

 この文章を書いている日、疑問に思うような光景を目にしました。図書館でいつものように徘徊していたところ、学習スペースを通り過ぎようとしたときのこと。どの人もぐったりとして疲れ果てており、書物を広げたままスマホをいじっている人や、中には寝ている人もいました。静かで集中できる場所なので、勉強にはいい環境です。ですが、勉強をするのはいいとして、何がそう疲れ果てるまでさせるのか疑問に思いました。僕にとって紙香る娯楽の空間に、こう鬱々とした空気の入る余地があるのかと驚きが隠せませんでした。彼らが何かに追われているのは確かですが、図書館にまで足を運んで寝るわスマホを観るわではもったいないと思います。机から目を離せば面白そうな本がたくさん並んでいて気分転換になるし、そんなものに興味がないとしても、ずっと座り続けず本棚の間を歩いてみたらいかがでしょうか。もとより、集中は長時間続かないのです。90分から120分が最大だとか。知りません。そうじゃなくても、一日にすることを決めて短い時間でこなせれば順調な生活が遅れる気がします。そんなことができたら僕もハッピーなのですが、明日も今日の繰り返し。大丈夫。大丈夫。2023年10月24日

3.ひねくれたよく動くヒトです

 自分の将来を考えたときに、今の自分には何の専門性もないことに気が付きました。それは、いままでは、様々なことに触れ、世の中の仕組みを理解する段階にいたからだと思います。でも、その時より一層未来のことを考えるようになっているのは、猶予期間を買っているからなのでしょう。その猶予もそう長くはないことを知っています。

 

 僕は、自分が何者かと問いながらも、その問いを難問と決めつけて避けていました。そうした理由は、自分がひとつの専門性を得た瞬間に、それ以外のアイデンティティが消え失せてしまうのではないかと恐れていたからです。今これを書いているので客観的に自分を見つめることができていると思います。今まで恐れていた、アイデンティティの喪失感はあってしかるべきだったと、何者のもなれない自分だからこそ、何にでもなれるように様々なことに手を出してきた、そう思います。そうして自分の自我を求める意志や行動が確立され、今度は、自分の生きていく道を決める分岐点に立たされているのです。それが専門性とやらものです。たとえば、専門分野を決めたとき、歩んで行くみちが狭くなるのを感じるかもしれません。しかし、それは喪失感というより専門の盲目的な性質によるものです。専門の道を行くということは、必ずしも専門の道を行かなければならないわけではありません。むしろ、誰もゆかない道こそ、アイデンティティの生きた専門性であり、僕が生きていく道なのだろう。それは僕が一番よくわかっていることだろうに、盲点でした。

 

 いま、分岐に立たされていることを実感し、これからの生き方が大きく変わりそうです。でも、今までの僕が変わることはありません。小さな変化を経ても僕は僕です。ひねくれたよく動く怠け者です。どうぞよろしく。2023年10月23日

2.マウントは取りませんというマウント

 読書と映画鑑賞が趣味で、今日から『映画を早送りで観る人たち』を読み始めました。映画についての知識を深めたいと思っているので、これからは映画に関する本を読もうと思うのですが、いい中庸だと思います。本も読みたい映画も観たい、なら映画の本を読もう、そういうことです。映画を観る時間がないわけではないのですが、いつも目に留まるものに手を付け、まとまった時間をうまく取れないのです。でも、早送りで観ようとは思いません。

 映画を早送りで観ることについて僕は、好きにしたらいいんじゃない、と思います。でも、その影響で世に出る作品にも影響が出るのなら、少し考えようですね。

 

 なんで早送りするかについて、「コスパ」という言葉をよく目にしました。「コスパ」にならんで、よく目にするのが「タイパ」です。要は少ない労力で大きな成果を得ようとすることです。映画に置き換えると、短い時間で一本観たことと同じ結果を得ることです。現代人は時間がないと言われがちですが、スマホから目を離せば意外と暇です。時間の確保は比較的容易(人による)なのに、どうして時短するのでしょう。

 本書を通読したわけではないですが、いろいろな要因に触れとても面白く読むことができています。ひとつにマウントを取りたいからとかなんとか、それもLINEで常につながっていることで、マウント癖に恒常性がまとったとか。気になったら読んでみてください。

 

 僕は映画に限らず、何かを語りたいと思ったら、その対象をコンプリートしなければいけないという使命感に駆られます。ですが、その使命感とやらはどのモノやコトに対してもはたらくので、結局何も得られず、気がそれたらおしまいです。何かをやろうと思うことにはいっちょ前。

 

 マウントとる人苦手ですね。早送りで観る理由、マウントを取りたいから。こう読み取るとなんてしょぼいんだと笑えます。自分が観たいものを観て、観てないものは観てないではだめなのでしょうか。話題についていけず悩むのは小学生までだと思っていました。かくいう僕は、中学3年の時に皆に合わせるために、スマホをねだって買ってもらいました。話題についていきたかったのでしょう。確かに人より劣っていると思うことはあるでしょうが、人より優れていると思うと途端に成長が止まる気がします。マウントをとる人をみるとかわいそうに思いますが、これも「マウントをとることが残念なことに気が付いた」というマウントでないか気になるところではありますが、今日はこの辺でおしまい。2023年10月23日

1.挨拶を避ける傾向にあります。

 何もない日曜日が一番好きです。でも、あれをやろう、これをやろうとあくせくするのも勿体ないので、コーヒーを飲みながら適当に過ごすのです。今日のコーヒーはキリマンジャロブレンド。インスタントで、贅沢とか飲み比べとかのキーワードを含んだ商品だったと思うのですが、舌が弱いので味も分からないし、腹も弱いのですぐに壊しますが、これが僕の日曜日です。

 

 しばらくして、外に出て散歩でもしようかと重い気を起こして歩き出し、ドアを開けた先にゴルフのバッグを担いだ住人らしき見知らぬ男性がいたので、察知される前にすぐに部屋へ引き返しました。人の横を通りすぎるのが苦手で、同じアパートの住人ならなおさら、気まずくて、嫌です。そこで考えてみると、挨拶にすこし違和感を覚えました。いただきます、ごちそうさま、ありがとう、ごめんなさい、は幼稚園までに習うことでいまさら話題にあげるつもりはありません。僕が気になっているのは、おはよう、こんにちは、こんばんは、という挨拶です。

 

 時代が進んでいろいろ発達して、人々が疎遠になったと言います。僕は少人数を好む性格なので実態は分からないし、地域の関わりが薄くなったと言われても、転勤族で定住しなかったので、実感としてそう思ったこともない。もともと人との関わりは薄かったので、そういう時代だと言われても、そういう人間性のせいだったかもしれないとも言いえるのです。

 

 挨拶はしたらいい気持ちになりますが、しなくてモヤモヤするのはやはり変だと思います。しないことは悪いことでしょうか。確かに挨拶されて無視するのは失礼だと思います。それは挨拶をしないことではなく、きっと人を無視することとして悪いと言われているのです。こんにちはと、だれに言うかと考えてみると、先生や知り合い、先輩など、親しくはないが少しの関係がある人だと思いました。距離感と保つツールなのでしょう。全く知らない人や親しい人はそんな挨拶しませんね。たまにしますが。(2023年10月22日)